第1章1節 妖舞い

 

 

 

 

 

[芙蓉ーどこにいるー?!]
[どこなの芙蓉ー…?]
黄昏時と呼ばれる時間。
道端の背の低い藪の陰で、短い角ともふもふとした尻尾が愛らしいぬいぐるみのようなモノ達が、きょろきょろとしながらひとつの名を呼んでいた。
子供が抱き抱えるのにちょうどいい大きさのそれらは、双子のようによく似ていたが、どことなく弾むように動く方は紫色、少しおどおどとしたほうは水色をしている。
[ふーようーっ!]
[芙蓉ー…]
「ここだよ、アルス、モルス」
ガサガサと藪を掻き分ける音がして、ひょこりと愛らしい少女の顔が覗いた。
節を付けて叫ぶアルスと、しょぼんと呟いたモルスの頬にそれぞれ口付けて、芙蓉と呼ばれた少女は、踊り子の艶やかな化粧を落としたあどけない顔でふわりと微笑む。
[芙蓉、いたー!]
[芙蓉、おつかれー!]
「ありがと。ふたりとも、いい子にしてた?」
きゃらきゃらと笑いながら飛び付いてくるふたりを抱き締めて、芙蓉は笑みを深めた。
そのとき。
「…なぁに、あの子」
「あれ、芙蓉でしょう? 今日、広場で踊ってた…」
「どこに向かって話してるのかしらね…」
そんな会話が、芙蓉の背後から聞こえてきた。
くすくすと、嘲笑うような笑い声も聞こえてくる。
芙蓉の背に、幾つもの視線が突き刺さった。
「本当にね…アヤカシの仲間かしら?」
「有り得なくは無いでしょう? だって、『妖舞い』ですもの!」
「まぁ、こわい!」
そんな言葉たちに、芙蓉は小さく唇を噛んだ。
『妖舞い』
それは、軽やかでありながら、あまりに妖艶な芙蓉の舞を妬んだ者達がつけた呼び名だった。
加えて、いまのようにアルスやモルスに話しかけているのを見られることが幾度かあり、それも相まって今では芙蓉の呼び名として定着してしまっている。
アルスとモルスは妖精だ。
普通の人間には、この子達は見えない。
つまり、芙蓉は端から見れば、虚空話しかけていることになる。
往来を行くほとんどの人間からすれば、芙蓉の行動はひどく奇妙に見えるのだろうことくらい、芙蓉自身が一番よくわかっていた。
じくじくと、胸の奥が小さな痛みを訴える。
大切な友人達をワルモノのように云うヒト達が、言わせてしまう自分が、厭わしかった。
黙り込んでしまった芙蓉を心配してか、アルスとモルスが口を開く。
[芙蓉、きょう、いやなことあったのー?]
[芙蓉、おしごとでこわいことあったのー…?]
その声も、一般人の耳には届かないはずのものだったが、芙蓉にははっきりと聞こえていた。
芙蓉は眉を下げる。
「今日はね、お祭りで踊ったの。みんな、わたしの舞をほめてくれてね、お金もいっぱいもらっちゃった。だからね、いやなことも怖いことも、なんにもなかったんだよ?」
幼子に言い聞かせるような口振りでそう言うと、ふたりの視線に合わせてしゃがんでいた芙蓉は、すっと立ちあがって、微笑んだ。
「さ、おうちに帰ろっか」
[かえる、かえる!]
[芙蓉とかえる!]
やはりきゃらきゃらと笑うふたりとそれぞれに手を繋ぎ、芙蓉は軽やかな足取りで歩き始めた。
…の、だが。
ずぞぞぞ…と。
音が、した。
「……なんの、音…?」
気づけば、往来から芙蓉たち以外のイキモノが消えていた。
ずぞぞぞ…という、なにかが蠢くような音は、少しずつ大きくなる。
[なんなのー…?]
モルスが不安げな声をあげた。
[こわいのー?]
普段は悪戯なアルスの声も、ほんの少し怯えを含んでいる。
アルスとモルスを抱き上げた芙蓉の心臓が、早鐘を打ち始めた。
何かがおかしい。
「アルス、モルス、走るから…しっかり掴まってて」
そうささやくと、芙蓉は家へと続く道を走り出す。
その瞬間、背後でバリバリと大きな樹が薙ぎ倒されるような音がして、熟しすぎた果実が腐ったような、甘ったるい腐臭が辺りに満ちた。
「あ…」
思わず振り返って、芙蓉は息を呑む。
そこには真っ黒な粘液を垂れ流しながら進む、蛞蝓のような巨大な塊がいた。
[なにあれ?!]
[なにあれ…っ]
アルスとモルスが怯えて芙蓉の首元にすがり付く。
早く逃げなければと思うのに、足がうまく動かない。
それでも無理矢理動かしていた足が、小さな石にぶつかって、もつれた。
「…きゃっ…!」
[芙蓉…!!]
[…っ!!]
砂利道で勢いよく転んでしまった芙蓉に、腕のなかでアルスが悲鳴をあげ、モルスは息を呑む。
「…痛っ…」
急いで立ち上がろうとするが、挫いてしまったのか右足が言うことを聞かない。
ず、ぞぞぞぞ、ぞぞ…と。
不気味な音を鈍く響かせて、巨大な黒い塊が、もうすぐそこまで迫ってきている。
「…っ」
凍りついたように動けなくなってしまった芙蓉は、すがり付いてくる温もりをかばうように抱き締めて、反射的にきつく目を閉じた。
刹那。
「…あぶないよ」
ふわり、と。
頭上から降ってきたそんな言葉とともに、あの甘ったるい腐臭が掻き消える。
驚愕に目を見開けば、あの黒い化け物は消えていた。
往来の喧騒が戻ってくる。
「なんだったの、あれ…」
アルスとモルスを抱き締めたまま、芙蓉は道端にへたり込んだ。
その首元に、ふたりが抱きつく。
[どろどろしてたのー!]
[こわかったのー…]
「よしよし、怖かったね」
べそをかくふたりを慰める穏やかな声はしかし、芙蓉の声ではなかった。
「……え…?」
芙蓉が呆然と声をあげ、アルスとモルスはぽかんとして黙り込む。
思わず顔をあげれば、眼鏡の奥の、やわらかな瞳と視線がぶつかった。
白の衣を纏った、黒髪短髪の、優しげな男の人。
「…見え、るの…?」
この子達が。
そんな芙蓉の言葉に青年は曖昧に微笑んで、持っていた鞄を開いた。
「挫いてるでしょ、右足。見せてごらん」
「え、えっと…」
芙蓉が戸惑っている間に、その青年はいくつかの軟膏と包帯を取り出して、彼女の白くて細い足を治療していく。
「これでも医術師の端くれでね」
そう言って彼は笑う。
そして、仕上げとばかりに懐から取り出した首飾りを芙蓉の首にかけた。
「あの、これ…」
「趣味で作ってるものなんだけど、あげるよ。御守り」
きみはどうやら、魔に好かれそうだから、と。
そう言ってやはり笑う彼は、最後にひとつ芙蓉の頭を撫でて、往来の雑踏に紛れていった。
[変なヒトー]
アルスがぼそりと呟く。
モルスもこくこくと頷いていた。
芙蓉はなにも言えずに、ただ首にかけられた首飾りをまじまじと見つめていた。
くらい色の革紐の先には、牙の形をした、紫水晶。
「御守り…」
[おまもり?]
アルスが興味津々に覗き込んでくる。
つられて覗き込んだモルスが感嘆の声をあげた。
[きれいねー!]
「うん、ほんとにきれい」
魅入られたようにそう呟いて、芙蓉は紫水晶を両手で握り締めた。
「……医術師さん…」
なにかが、変わってしまうような気がしていた。

 

 

 

 

 

 

 

【二者択一】
わたしには、あの子達だけ。
あの温もりさえあれば良かった、はずだった。





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