雨のひと



いつ出会ったのかなんてもう忘れてしまったけれど、ひとつ覚えていることがあります。
…貴方が、雨のなかで微笑んでいたこと。
寂しそうに微笑っていた、その一瞬だけが、貴方との唯一の思い出でした。

 

はたしていくつの時だったか。
遠い、いまではあまりにも遠い記憶です。
子供だったわたしはあの日、仲の良い友達数人と遊んでおりました。
そうして夕暮れに差し掛かり、友人たちにさよならを告げたあと、その帰り道で急に降りだした土砂降りの雨に、足止めを喰らってしまったのです。
雨宿りをしたのは、帰り道にある祠。
中に入れば、大人2人程度ならば雨宿りすることが出来る程度の広さがある祠でした。
その祠の奥には、美しい造りの狐の石像が置いてあったので、『おきつねさまのおうち』だなんてかわいらしい呼び方をしていたものですが、暗いときには肝試しの会場になるような、幼心にたいそうこわい場所でもありました。
そのような場所でひとり、雨宿りをしていたのです。
薄暗く、埃っぽい祠。
屋根を叩く、篠突く雨。
噎せ返りそうなほどに濃い、水に濡れた緑の匂い。
…ひとりぼっちの幼子が泣き出すのも、致し方ないことでしょう。
しゃくりあげて泣き始めたわたしの耳に、不意に鈴の音が聴こえてきました。
しゃらり、しゃらりと拍子を刻むような鈴の音が大きくなるほどに、雨脚は弱まっているようでした。
子供とは存外単純なもので、興味を引かれるものがあれば、いままで泣いていたことさえも忘れてしまうのです。
このときのわたしもそうでした。
あまりに美しく儚いその鈴の音に心を惹かれて、そうっと戸を開き、暗い祠の中から薄暗い外を覗き見たのです。
…そこには、えもいわれぬ美しい御方がいらっしゃいました。
男性と云うには線が細く、女性と云うにはまろみのない体つきをしたその方は、白の単に白の袿を纏い、手に神楽の鈴を持って、此方に背を向け、誰に見せるでもなく、どこか祈るような舞を捧げていらっしゃったのです。
そう、捧げているように見えたのです、わたしには。
雨のなかで、大気を抱き寄せ紡ぎ出すように複雑に腕を動かし、足は緩やかに拍を刻み。
一連の舞が終わる頃には、雨は止んでおりました。
ほのかに光を纏っているようにも見えたその方のまわりでは、沸き立つような『いのち』の香りがしていたことを、いまでも鮮烈に覚えているのです。
此方を振り返ったあの方の、寂しげな笑顔と共に。

 

そのあとどうしたかはよく覚えておりません。
あの方に、早く帰りなさいと言われて帰ったような気もするし、なにも言われずに、気づいたら家の前に立っていたような気もします。
それから何度も『おきつねさまのおうち』に足を運びましたが、あの御方に逢うことはついぞありませんでした。


今はもう、その祠の場所も覚えておりません。
ただただ、あの御方の涼しげで寂しそうな切れ長の瞳と、それ以前よりほんの少し柔らかくなったように見えた狐の石像の目元ばかりを覚えているだけなのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

【雨のひと】
いとおしいという感情を知るのが、
少しばかり遅かったものですから。

 

 

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