深緋の唄




海は、いのちの産まれいづる場所であるとともに、いのちの還る場所でもある。


・*・*・*・*・*・


「…ザン」

「なに、イオ兄さん?」

背後からかけられた声に、ザンは黒曜石の瞳をひとつ瞬かせて、くるりと振り向いた。視界の先には、玄関口に立ったイオが、表情が見えないほどの逆光の中で、腰に手を当てて立っている。

抜けるような青い空と、真っ白な雲が目に痛い。

ああ、ぼんやりしていたな、と何処と無く霞がかった思考の隅で、ザンは呟いた。

「…夕飯の材料捕りに行くぞ」

「えっ…? あ、うん!」

イオが愛用の銛と弓矢を手にしているのを見て、もうそんな時間か、とザンは軽く目を見張った。明るすぎる陽射しに、時間感覚が狂ったらしい。

慌てて銛だけを手に取って立ち上がると、イオが訝しげに言った。

「おまえ、弓は?」

「兄さんが行くなら要らないでしょ?」

イオ兄さん、百発百中だもんね、とザンが笑えば、イオは溜息をついた。

「…置いていくぞ」

「待って、兄さん!」

乱暴に草履を突っ掛けて駆け出せば、焼けた空気が浅黒い頬を撫でた。イオと揃いの赤茶けた短い髪が、ふわりと風に遊ぶ。夕飯のための狩りなんていつものことなのに、なぜだか楽しくて嬉しくて、嗚咽のような笑い声とともに涙が滲んだ。


・*・*・*・*・*・


「今日は山?海?」

「海」

「え、じゃあなんで弓…」

「海鳥落とす」

「……、……さすがイオ兄さん…」

他愛もない会話をしながら、海辺へと下る坂道を行く。海岸につくと、足場のようになっている岩の連なりを辿って、背丈の数倍も深さがある場所まで来た。揺れる海草の隙間に、魚の影が時折覗く。

「…どのくらい捕ればいいかな?」

「十も捕れば充分だろ」

生地が薄く、袖の短い着物の袷の紐を結び直してぼそぼそと話し合う。家族の夕食分の他に、干して保存する分もついでに少し獲ってしまうことにした。

「とりあえず5匹捕ったら上がってこいよ」

そう言い残すと、イオは飛沫ひとつ立てずに波間に飛び込んだ。

「あっ、……ぇ…?」

思わず伸ばした手に疑問符が浮かぶ。

だって、いつものことなのだ。イオが先に飛び込むのも、なにもかも全て。なのに何故、こうも不安になるのか。

まるで、手を離せば消えてしまうとでもいうように。

「……………」

そこまで考えて、ザンはふるると首を振った。

「…その前に、魚、捕らなくちゃ」

銛をしっかり握り締める。そのまま、とん、と岩場を蹴った。白く飛沫が上がり、視界が碧に染まる。

視界の端で銛を操るイオが、水底の闇に紛れて見えて、恐ろしかった。


・*・*・*・*・*・


結局ザンはあの後、イオが魚を五匹捕らえて、さらに射るのが難しい海鳥を二羽落とす間に、三匹しか魚を捕らえることができなかった。

見かねたイオが残りの二匹を手早く仕留めて、二人分の銛を担ぎ、空いた手でザンの手を引く。足のつくところまで泳きついたところで、するりと手を離された。

「………兄さん、やっぱりすごいね…」

そのまま波を蹴って浜辺へと歩き出す兄に、ぽつり、とそんな台詞を放り投げた。そんなこと無いだろう、という兄の呟くような声を聞き流す。

波に足を取られて、小さくよろめいた。

何故か、身体が重く、指先が小刻みに震えている。

真夏の、それもまだ日も暮れきっていない時間なのに、ひどく寒い。

「…大丈夫か?」

「………ん、平気」

そう答えるザンの顔を覗き込んで、イオが眉根を寄せた。そんなにひどい顔をしているのだろうかと、へらりと笑って見せる。

イオは顔をしかめてそんなザンの右手を取ると、自分との立ち位置を入れ換えるようにして、勢いをつけて砂浜に引き上げた。次いで、イオの大きな荒れた手が、塩辛い水に濡れたままのザンの頭をがしがしと乱暴に掻き撫でる。

ザンは目を見開いた。

「えっ…ちょ…っ…と、兄さん…っ!?」

「…お前、無茶は良いが、無理はするなよ。こっちが気が気でなくなる」

家を継ぐのはお前なんだからな、という溜息混じりの声に、わたわたと振り回していた手が止まる。言い知れない不安に顔をあげた瞬間、とん、と肩を押されて、ザンは砂浜の上で仰向けに転がった。

慌てて跳ね起きて前を向けば、きれいな弧を描いて、銛が投げ渡される。

ザンが反射的に右手で受け取ると、それはイオの銛で。

「え、兄さん、なんで…」

呆然としたザンの顔に、イオは笑った。

笑って、言った。

「それ、やる」

「は…?!」

ザンの瞳がこれ以上ないほど見開かれる。

「もう必要ないからな。大事に使えよ」

いっそ清々しいほどあっさりとそう言って、イオは腰に手を当てた。不気味なほど紅い夕陽を背に、きらきらと乱反射する海水に足首まで浸かったまま。

その姿に、吐き出しそうなほどの恐怖が胸を衝いた。

「どういうことだよ! ねぇ、兄さん、はやくこっちに上がって来てよ! いっしょに、家に帰ろうよ…っ」

不安のままにザンが叫ぶ。

「……なぁ、ザン」

その、悲鳴にも似た声を無視して、イオが口を開いた。逆光で、表情は見えない。

「兄さんってば…っ!!」

その続きを聞きたくなかった。

聞いてしまえば、なにかが終わってしまう気がした。

それでも。

「―――――」

凪いだ海の音に紛れたその言葉は、聞かなければいけないものだったようにも感じた。

「……っ」

ひきつるように息を呑んだザンの目の前が、大きく歪んで暗く閉じていく。

最後に視た兄は、泣き出しそうな顔で笑っていた。

そんな、気がした。


・*・*・*・*・*・


「………ぁ…」

ふとザンが目を覚ますと、さっきまでと同じ、紅い空が目の前に広がっていた。

違うのは、波の音が聞こえないこと。

腹から下が、何かにのし掛かられているように重たいこと。

そして、人の気配がひとつもないこと。

「…っ、にいさ…っ……ぅ…ぐっ…」

それに気づいた瞬間、ザンは跳ねるように身体を起こしかけて、呻き声と共に、びくりと震えて動きを止めた。身体の至るところが軋む。その痛みに、ザンは思わず、きつく奥歯を噛み締めた。目蓋の裏に火花が散る。

しばらくして、ようやく痛みが少しばかり収まったころ、のろのろと辺りを見回したザンはその光景に声を失った。

果てしない荒野に、無数の人々が倒れ伏している。血に塗れ、重なりあって、手に手に武器らしきモノを持ったまま。

「…っあ、ああ…」

意味の無い音が、強張った喉を震わせる。冷えた左手が、無意識に顔を覆った。

そして、思い出す。

自分達は、戦場にいたのだと。

兄とふたり、徴兵されて、ここまで来たのだと。そこまで思い出して、はたと瞬きをした。

そうだ、兄は、イオは。

不意に、腹から下にのし掛かる重みに、ぞくりと背中が震えた。

見てはいけない。見なければならない。

相反する思考が空回る。脳裏に警鐘が鳴り響く。それを掻き消すほどの鼓動が耳の内に反響する。

それでも目を閉ざさなかったのは、それを見なければ、先へ進めないと、心のどこかが理解していたからだったのだろうか。

そろりと身体を起こし、ゆっくりと俯く。

そうして目に映ったのは、ザンが最も見たくないものだった。

黒曜石の眼を見開く。うまく、息ができなくなる。

「……イオ…にいさ…っ……」

深々と背に剣を突き立てられ、どす黒い紅に染まったイオは、まるでザンを庇うかのように倒れ伏していた。

「あ…はは……」

涙すら忘れていた。どうしようもない感情が渦を巻いて、乾いた笑いが込み上げる。無意識に両手で顔を覆おうとして、右手がなにかを握り締めていることに、ザンはやっと気がついた。

つい、とそちらに乾いた視線をやれば、右手が握っていたのは、銛。なにかに突き動かされるままに開いた手のひらのなか、血濡れた柄に刻まれた銘は、『イオ』。

「……っ!」

思い出す。二度と忘れるものかと。

混乱の最中、銛を弾き飛ばされたザンを庇って傷付いたイオ。この右手に、自分の銛を押し付けて笑った兄の姿が、夢の中の兄と重なった。

『生きてくれ』

紅に染まる世界で、彼は確かにそう言って、笑った。

(……ああ、生きよう)

ザンの瞳に光が宿る。

そうだ、生きよう。生きて、故郷に帰ろう。

イオの魂と共に。

一度だけ、イオの亡骸を抱き締め、ザンは立ち上がる。イオの銛を手に。

もうすぐ陽が落ちる。その前に戦場を抜けよう。夜に紛れて山を越えれば、きっと誰にも見つからない。

ザンは、顔を上げて、言った。

「帰ろう、イオ兄さん」

応えはない。あるはずもない。

けれど確かに、どこかで、腰に手を当てて、からりと笑うイオの気配が、した。

そんな、気がした。





【拍手】

【書庫へ戻る】