『野良猫デイズ』
野良猫のように死ねたら、と思っていた。きっともう、ずいぶん長い間。
年に、正味1週間のひとり旅を許可すること。その行き先は聞かないこと。
それが、わたしが出した、彼と結婚するときの条件だった。
彼は不思議そうな顔をしたが、わかりました、いいですよ、と素直に頷いてくれた。わたしはそれを聞いて、心底ほっとしたのを覚えている。鮮明に。
そしてこれが、結婚してはじめてのひとり旅だった。鬱々としていた重たい梅雨が明けて、本格的な夏が始まるまでの、わずかな期間。そんな不安定な時期を選んで、わたしは飛行機のチケットとコテージの予約を取った。
誰にも行き先など告げなかった。
告げたくもなかった。
ふわふわとまどろむような穏やかさで、新婚生活は過ぎていく。夫は優しく、家の空気はあたたかかった。
それでも、幼い頃から飼い続けていたとらえどころのない不安は腹の底で渦を巻き、わたしはそれを誤魔化すように、ひとり旅の出発までの日数を指折り数えていた。
出発の日、夫は忙しいだろうに、空港までわたしを送ってくれた。背の低いわたしには、大きな荷物は大変だろうとスーツケースを搭乗ゲートの近くまで引いて来てくれた。
「ありがとう、ございます」
もそりと呟くわたしに、いいえ、と首を振って、彼は、
「気をつけて」
とだけ言って手を振った。
彼の微笑みに、みっともなく泣きたくなった。けれど、そんな弱さを見せたくなくて、わたしはくるりと彼に背を向けた。腰までもあるスーツケースは重かった。
行き先を間違えないように、何度もチケットを確認しながら、飛行機に乗り込み、座席に座った。
目的地は奄美大島。日本で一番、天国に近い島だった。
島についたわたしを迎えたのは、嘘みたいな青い空だった。すこんと抜けるようで、思わず息を呑むほど澄んでいた。
呆然と立ち尽くしていると、不意に声をかけられた。壮年の、よく日に焼けた男性だった。予約したコテージの管理人らしく、コンパクトな白い車を指差しながら、人懐こい笑顔を見せた。
「あれで送りますから、荷物を持ってきてください。スーツケースは後ろに載せますんで」
少し訛りのある敬語でそう言われて、素直に指示に従う。後部座席が荷物で狭くなったので助手席に案内されたが、どうも落ち着かずに縮こまるようにしてシートに収まっていた。
それから二言三言、他愛もない世間話をして、あとはラジオから流れてくるローカル番組の軽妙なやり取りや音楽を聞きながら送迎車に揺られていた。
コテージは、空港から車で三十分程度の場所にあった。小さな木造のログハウスの前には、真っ白なプライベートビーチが広がっていた。
管理人の男性は、わたしにいくつかの注意事項や緊急連絡用の電話番号の説明をしたあと、ひょいと鍵を手渡して、
「それでは、また最終日に」
と去っていった。
ぽつんと残されたわたしは、とりあえず荷物をコテージに放り出し、ビーチサンダルを突っ掛け、スマホだけを手にとって、真っ白な砂浜へ飛び出した。
砂は白く、緑は濃く、空と海はどこまでも青く澄んでいた。
ふは、と震えた笑い声が漏れた。くしゃりと顔が歪む。じわじわと視界がにじんでいく。
ぼろり、と最初の涙がこぼれ落ちた瞬間。
わたしは、くず折れるように座り込んで、泣き出した。
声も涙も、しゃくりあげることさえも我慢しなかった。
誰もそれを見ていなかっただろうし、絶対に見られたくもなかった。
ただただ青い海の波の音を聞きながら、涙の限り泣いた。なぜ泣いているのかもわからず、子供のように泣きじゃくる自分を冷笑する自分も心のすみにいた。
それでも、泣いて泣いて泣いて、泣き疲れて眠って、起きたときには夜だった。
腫れぼったいまぶたを持ち上げ、月下の海を見て、笑う。
そこは確かに、天国だった。